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〜15、16世紀
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イベリア半島(スペイン・ポルトガル)は、ヨーロッパ内でも特に装飾タイルの普及が早かった地域です。それは、8世紀からイスラム教徒の支配が始まり、キリスト教徒とイスラム教徒が長く共存していた、という歴史的背景と関係しています。 北アフリカでは古くから上薬をかけたセラミックのモザイクが作られており、その技術が北アフリカのアラブ人芸術家たちによってイベリア半島に伝えられたのです。スペインのマラガ、セビーリャ、バレンシア、タラベラがイベリア半島における生産拠点となりました。アズレージョは、そのモザイクが発展したものでした。
15世紀前半から、少量のタイルがポルトガルにも入ってきましたが、本格的にタイルをスペインから輸入するのは15世紀の終わり頃、マヌエル1世王の時代です。1498年に王がスペインを訪れた時、グラナダのアルハンブラ宮殿やセビーリャのカテドラルに大変魅せられ、ポルトガル王家の離宮であるシントラをタイルで飾ることにしたのです。 16世紀に入り、アラブ人によって伝えられた「ムデハル技法」と呼ばれる幾何学模様などが特徴のタイルを大量に輸入し、宮殿、教会、修道院の壁などに使われるようになりました。「アズレージョ」という言葉も、スペインから伝わりました。
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ポルトガルお受けの離宮「シントラ王宮」内の幾何学模様タイル。16世紀にセビーリャで作られたもので、多くの部屋で見られる。
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16〜17世紀
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もちろんポルトガルにも、瓦やレンガなどのセラミックは以前から存在していましたが、この時代から装飾タイルが、ポルトガルでセラミック芸術として発展していくのです。リスボンではいくつかのタイル工房もできていきました。
そして16世紀中頃には、イタリア人芸術家たちが、フランドル、フランス、スペイン、ポルトガルで「マジョリカ技法」を広め、ポルトガルタイルに大きな変革をもたらしました。ムデハル様式の幾何学模様や植物のモチーフに対して、マジョリカ技法では、人物、動物描写、そして歴史、古典神話、宗教的事蹟などを自由線で描いた、壁画風タイルが多く、より芸術性も高まりました。
大航海時代の華やかな時代から一転して、1580年にはポルトガルはスペインに併合されました。60年間のスペイン併合時代は、教会の壁画なども、それほど費用の掛からない単色モザイクで、シンプルに飾りました。そのデザイン構成は、幾何学模様や草花で、東洋のタペストリーを思い出させることから、「カーペットスタイル」と呼ばれ、このタイプのタイルは工房で大量に作られました。 また「ダイヤモンドカット」と呼ばれる、平面に明暗を付けて描き、立体感を持たせたタイルもセビーリャから多く入りました。これもやはり同じパターンの絵が続くものです。
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教会の装飾などでよく見られるカーペットスタイル。青単色か、もしくは青と黄色の二色のものが多い。
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17〜18世紀
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17世紀中頃、ポルトガルは再独立しました。社会的変化は、タイルのスタイルにも大きく影響し、明るい人物描写やね当時の風習を戯画的に描いたものが多く作られました。伝統的な青、黄色に緑や紫を加えることによって、より華やかさも増しました。
17世紀の終わり頃から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて完璧なセラミックを作るもというのは、つまり中国磁器をまねる、ということでした。この色の魔術は広まり、オランダ、イギリス、フランス、ドイツの工芸に強い影響を与え、ポルトガルでも、タイルの材質は陶器質でしたが、中国磁器の柄や色を模したタイルが作られていきます。
オランダでは、白地に青い絵のマジョリカアズレージョの製造に精を出し、ヨーロッパ中に大量にこれを輸出しました。 ポルトガルタイルも中国や日本の藍色の染付と、オランダタイルの影響で、青一色のものが多くなります。またこの頃にはタイルに使う粘土の質にも注意を払うようになります。決まった良質の土を使ったタイルは、表面は滑らかで、焼成後も急激に温度は下がりません。
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リスボン市内のサン・ビセンテ・デ・フォーラ教会内は、18世紀のバロックタイルが見事。写真は回廊の壁。
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18〜19世紀
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18世紀のジョアン5世の時代は、植民地であったブラジルで金鉱が発見され、それを課税することによって、莫大な富を得て、建築も奇抜で大規模なものが建てられました。そしてアズレージョもバロックやロココ様式の時代を迎えます。この頃にはポルトガル全土にアズレージョが広まり、ポルトガル領のマデイラ諸島やアソーレス諸島、そしてブラジルにも装飾タイルは普及していきました。
この時代の絵付けの特徴は、再び多彩色が主流であること、絵はより緻密になり、枠の飾りに植物や貝殻風の装飾を加えること、などです。1755年のリスボン大地震後は、再建時に建てられた簡素で地味な建物を、アズレージョで華やかに飾りました。 1767年のラト・セラミック工場設立によって、タイルの大量生産も可能になりました。ここでまた「カーペットスタイル」も復活します。そして19世紀の産業革命で、飛躍的に技術が向上するのです。 まずは材料や作業方法の徹底的な分析が始まります。それまでは、薪の釜の温度を測るのは無理であったし、品質は職人の経験と能力に頼るのみでした。この頃には、メーカー独自の色の開発も進みました。
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これは「キンタ・ドス・アズレージョス」という、もとは貴族の館。現在はなんと学校になっている。写真はお庭のベンチ。とっても豪華。
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19〜20世紀
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ブラジル独立後、1830年頃に多くのポルトガル人が本国に帰国し、自宅の外壁を全てタイルで覆いました。このような使い方は、熱帯性豪雨や、湿度から壁を保護するためで、ブラジルでよく見られる使い方です。 その後、通りの壁、教会のファサード、店、市場、鉄道の駅などにもアズレージョが貼られるようになり、急速に需要は高まります。その多くの建物に、工場で版画風に機械的に作られたタイルが使用されました。ハンドペイントではない大量生産のタイルは価格も安く、旧市街の貧しい庶民のアパートにも使用されたのです。 イギリス、オランダ、フランス、ベルギーの「銅版プリント絵付け」、つまりタイルに絵柄を転写した、安価な工業製品の輸入量が増える一方、それに対抗するかのように、ポルトガルのタイル職人たちの技術はより磨きがかかり、ポルトガルでは決して型にはまった完全に工業製品になることはなかったのです。 アズレージョはポルトガル人の美的センス、文化的関心の表れだったので、手工芸品としてつねに受け継がれ、そのクオリティーは、画家の腕にかかっていました。もちろん機械技術の新たな導入で、作業は簡単になりました。焼釜は電気、ガスなどで温められ、温度を微妙に調整することも可能になりました。
19世紀後半から20世紀かけて、アールヌーボー、アールデコ、そしてモダンアートと、様々なスタイルのアズレージョが作られていきますが、芸術的な作品は、全て華やかな色彩のハンドペイントのものであり、アズレージョ画家たちは、つねに絵とデザインの分野における優れた芸術的才能を要求されるのです。 公園や駅、教会、その他つねに多くの人々の目に触れる場所に取り付けられる装飾タイルは、芸術家たちにとっては大変魅力的なものであり、現代の画家たちも次々にタイルの作品を作っています。
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1864年に作成した壁画風タイルが美しい建物。プリントタイルが主流だったこの時代にも、ハンドペイントの芸術的作品は生きている。
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