Azulejo PICOはポルトガルのアズレージョ(=装飾タイル)を直輸入・販売しております。
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アズレージョとは?

アズレージョとは?

「アズレージョ」の語源「アズレージョ」の語源歴史歴史

「アズレージョ」の語源

アズレージョって、とっても変わった言葉。いったいどのようにこの言葉は生まれたのでしょう。

ポルトガルではタイルのことをアズレージョといいます。これは、柄があってもなくても、手作りでも工業製品でも、タイルはなんでもアズレージョなのです。この言葉は一体どこから来たのでしょうか。ポルトガルのタイルは青一色で描かれたものが多いから、「青」という意味のAZULからAZULEJOという言葉が生まれた、という話をよく耳にします。でも、ポルトガルのタイルが青一色になったのは17,8世紀のことですし、それ以前からAZULEJOという言葉はあったわけですから、この説は矛盾しています。この言葉が生まれた経緯はもう少し複雑で、長い歴史を辿っていったほうがよさそうです。

語源はペルシャ語で「青」を意味する“LAZULI”
もともとこの語源はペルシャ語だったといいます。ラピス・ラズリという青い石をご存知ですか。ギリシャ人、ローマ人、アラブ人に好まれ、よく使われた石でした。あのラズリ(LAZULI)という部分は青を意味しています。
そこから今度は形容詞のZULという言葉が出てきて、それは「磨かれた」「つるりとした」「輝いた」などの意味で使われるようになったのです。その後ZULから動詞のZULEJと変化しています。北アフリカではこれがZULIZとなります。

8世紀前半からイベリア半島(スペインとポルトガル)は北アフリカから侵入してきたアラブ人によって支配され、彼らはラテン・モザイクのことをZULIZと呼ぶようになったのです。イベリア半島では、元は動詞だったZULIZから新たに名詞のAZZELIJという言葉が現れます。イベリア半島におけるアラブ人支配は15世紀まで続き(ポルトガルにおいては13世紀)、その間に表記や発音が少しずつ変化してAZULEJOとなったのです。そして、アラブ人によってスペインにタイルの製造技術が伝わり、タイルのことをアズレージョと呼ぶようになった、ということです。

17世紀になり再び蘇った「青」という語源。
13,4世紀に、スペインのアンダルシア地方でセラミックタイルで建物を飾るという習慣が定着していきました。アズレージョという言葉は、「青」という意味の言葉が語源になっていますが、その四角いセラミックは決して青一色ではなく、多彩色だったのです。
そして17世紀になり、初めて青一色で描かれたタイルが主流になり、そこまでの道のり、歴史とは全く関係ないのですが、<青>という語源がそこで蘇ってくるのです。

歴史

アズレージョの歴史を見ていきましょう。
いくつかの時代区分に分けてみるといいようです。

~15,16世紀  > 16~17世紀  >17~18世紀  > 18~19世紀  > 19~20世紀

~15,16世紀

ポルトガル王宮の夏の離宮「シントラ王宮」内の幾何学模様のタイル。16世紀にセビーリャで作られたもので、このタイプは宮殿内の多くの部屋でみられる。
ポルトガル王宮の夏の離宮「シントラ王宮」内の幾何学模様のタイル。16世紀にセビーリャで作られたもので、このタイプは宮殿内の多くの部屋でみられる。

王がスペインから輸入したタイルで王宮を飾りその後、宮殿・協会・修道院などの壁に使われるように。王がスペインから輸入したタイルで王宮を飾りその後、宮殿・協会・修道院などの壁に使われるように。
イベリア半島(スペイン・ポルトガル)は、ヨーロッパ内でも特に装飾タイルの普及が早かった地域です。それは、8世紀からイスラム教徒の支配がはじまり、キリスト教徒とイスラム教徒が長く共存していた、という歴史的背景と関係しています。
北アフリカでは古くから釉薬を掛けたセラミックのモザイクが作られており、その技術が北アフリカのアラブ人芸術家たちによってイベリア半島に伝えられたのです。スペインのマラガ、セビーリャ、バレンシア、タラベラがイベリア半島における生産拠点となりました。アズレージョは、そのモザイクが発展したものと言えます。

15世紀前半から、少量のアズレージョがポルトガルにも入ってきましたが、本格的にタイルをスペインから輸入するのは15世紀の終わり頃、マヌエル1世王の時代です。1498年に王がスペインを訪れた時、グラナダのアルハンブラ宮殿や、セビーリャのカテドラルに大変魅せられ、ポルトガル王室の離宮であるシントラ王宮をタイルで飾ることにしたのです。
16世紀に入り、スペインでアラブ人によって伝えられた「ムデハル様式」又は「イスパノ・アラブ様式」と呼ばれる幾何学模様などが特徴のタイルを大量に輸入し、宮殿、教会、修道院などの壁に使われるようになりました。その頃に「アズレージョ」という言葉もスペインから伝わりました。

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16~17世紀

協会の装飾などでよくみられるカーペットスタイル。青単色か、もしくは青・黄色の二色のものが多い。
協会の装飾などでよくみられるカーペットスタイル。青単色か、もしくは青・黄色の二色のものが多い。

60年間の併合時代に広まったシンプルで同じパターンが続く「カーペットスタイル」。
もちろんポルトガルにも瓦やれんがなどのセラミックは以前から存在しましたが、この時代から、装飾タイルがポルトガルでセラミック芸術として発展していくのです。リスボンにいくつかタイル工房もでき、本格的に国内生産が始まりました。

16世紀中ごろには、イタリア人芸術家たちが、フランドル、フランス、スペイン、ポルトガルで「マジョリカ技法」を広め、ポルトガルタイルに大きな変革をもたらしました。ムデハル様式が幾何学模様や植物のモチーフが中心となるのに対して、マジョリカ技法では、人物や動物描写、歴史上の出来事、古典神話、宗教的事蹟などを自由線でカラフルに描いた壁画風タイルが多く、より芸術性も高まりました。

大航海時代の華やかな時代から一転して、1580年にはポルトガルはスペインに併合されます。60年間の併合時代は、芸術にも影響を及ぼします。教会の壁画なども、それほど費用と高度な技術を必要としないパターン化した単色タイルでシンプルに飾りました。そのデザイン構成は、幾何学模様や草花で、東洋のタペストリーを思い出させることから「カーペットスタイル」と呼ばれ、このタイプのアズレージョは工房で大量に製造されました。
また「ダイヤモンドの尖端」と呼ばれる平面上に描かれる宝石のカットのような柄も当時の人気のデザインです。色に濃淡を付けて立体的に見えるように描いたこのデザインは、セビーリャから多く入ってきました。これもやはり同じパターンの絵が続くものです。

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17~18世紀

リスボン市内のサン・ビセンテ・デ・フォーラ教会内は、18世紀のバロックスタイルが見事。写真は回廊の壁
リスボン市内のサン・ビセンテ・デ・フォーラ教会内は、18世紀のバロックスタイルが見事。写真は回廊の壁

再独立後は華やかさを増し、東洋文化とオランダタイルの影響で、青単色のものが主流に。
17世紀中ごろ、ポルトガルは再独立しました。社会的変化はタイルのスタイルにも大きく影響し、明るい人物描写や風刺画のアズレージョも多く作られるようになりました。カーペットスタイルの時代によく使われた青と黄色に加え、緑やセピアも多く使われ、一層華やかさは増しました。

17世紀終わり頃から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて完璧なセラミックを作る、というのは中国の磁器をまねることでした。この色の魔術は広まり、オランダ、イギリス、フランス、ドイツの工房に強い影響を与え、それ勢いはポルトガルにも及ぶのです。アズレージョの材質はあくまで陶器質でしたが、中国磁器の柄や色を模したタイルが作られていきます。

オランダでは白地に青い絵のマジョリカタイルの製造に精を出し、ヨーロッパ中に大量にこれを輸出しました。
ポルトガルタイルも、この時代には、中国や日本の藍色の染付とオランダタイルの影響で、青単色のものが多くなります。またこの頃にはタイルで使う粘土の質にも注意を払うようになります。決まった良質の粘土を使ったタイルは、表面はなめらかで、焼成後の急激に温度は下がりません。

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18~19世紀

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再び多彩色が主流になり、絵はより緻密に。その後、大量生産が可能になり「カーペットスタイル」が復活。
18世紀、ジョアン5世王の時代は、植民地であったブラジルで金鉱が発見され、それを課税することによって莫大な富を得て、建築も奇抜で大規模なものが建てられました。そしてアズレージョはバロックやロココ様式の時代を迎えます。この頃にはポルトガル全土にアズレージョが広まり、ポルトガル領のマデイラ諸島やアソーレス諸島、そしてブラジルにも装飾タイルは普及していきました。

この時代の絵付けの特徴は、再び多彩色が主流になっていることと、絵はより緻密になり、組タイルの枠部分の装飾に、植物や貝殻風のデザイン、天使などをほとんど隙間なく描く、ということです。このような装飾は、組タイルがまるで立派な額に入っているようでした。
1755年のリスボン大地震後は、再建時に建てられた地味で簡素な建物を、次々とアズレージョで装飾していったのです。

1767年のラト・セラミック工場設立によって、タイルの大量生産も可能になりました。ここで再び「カーペットスタイル」が復活します。そして19世紀の産業革命で、飛躍的に技術が向上するのです。
まずは材料や作業方法の徹底的な分析から始まりました。それまでは、薪の窯の温度を測るのは不可能であったし、品質は職人の経験と能力に頼るのみでした。この頃には、メーカー独自の色の開発の進みました。

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19~20世紀

1864年に制作した壁画風タイルが美しい建物。プリントタイルが主流だったこの時代にも、ハンドペイントの芸術的な作品は健在である。
1864年に制作した壁画風タイルが美しい建物。プリントタイルが主流だったこの時代にも、ハンドペイントの芸術的な作品は健在である。

急速に需要が高まり、庶民のアパートにも使用されるように。大量生産に対抗し、ハンドペイントの芸術的な作品が生まれた。
ブラジル独立後、1830年頃に、ブラジルに移民した多くのポルトガル人が本国に引き揚げてきました。彼らは自宅の外壁全体にアズレージョを貼っていったのですが、このようなアズレージョの使い方はブラジルでよく見られるもので、気候とも関係しています。熱帯性豪雨や湿度から壁を保護する目的で、タイルを外壁に使っていたのです。

その後、道路の壁、教会のファサード、商店や市場、鉄道の駅などにもアズレージョが貼られるようになり、急速に需要は高まります。その多くの建物に、工場で版画風に機械的に作られたタイルが使用されました。ハンドペイントではない工業製品のタイルは安価で、旧市街の貧しい庶民のアパートにも使用されたのです。

イギリス、フランス、オランダ、ベルギーの「銅版プリント絵付け」、つまりタイルに絵柄を転写した大量生産のアズレージョの輸入量が増える一方、それに対抗するかのように、ポルトガルのタイル職人たちの技術はより磨きがかかり、ポルトガルでは決して工業製品に偏ることはなく、ハンドペイントの技術を重んじる気持ちを人びとは持ち続けました。
アズレージョはポルトガル人の美的センス、文化的関心の表れだったので、手工芸品として常に受け継がれ、そのクオリティーは、画家の腕にかかっていました。もちろん機械技術の新たな導入で、作業は合理化され、焼釜は電気、ガスなどで温められ、温度を微妙に調整することも可能になりました。

19世紀後半から20世紀にかけて、アールヌーボー、アールデコ、モダンアートと、芸術の流れに沿って様々なスタイルのアズレージョが作られていきますが、芸術的な作品は、全て華やかな色彩のハンドペイントのものであり、アズレージョ作家たちは、常に絵とデザインの分野における優れた芸術的才能を要求されるのです。
公園や駅、教会など、その他常に多くの人の目に触れる場所に取り付けられる装飾タイルは、芸術家たちにとっては大変魅力的なものであり、現代の画家たちもアズレージョの作品を残したいと考えるものは多いのです。